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さざ波便りとう天100先が読めるNo423号

※早朝に見るお月さまはよかですね。

16夜の次の朝

※平成30年9月27日朝6時ごろのお月様!あまりの美しさにパチリです。

 

 

さざ波便り    No 423号 平成30年10月1日 田ご作

                                           〒859-3711   長崎県波佐見町田ご作村

 

宮崎滔天を知れば100年先が読める!No1

 

 私が手の届く所にいる宮崎滔天とは、如何なる人物であったのか??彼は

明治3年(1871年)熊本県荒尾村に、生を受けています。郷士であった

父長蔵(政賢)と母サキの末っ子として、幼少の頃はつつがなく生きていま

す。彼ら4兄弟が無冠の徒として生きるのは、父長蔵の薫陶があります。そ

れは長兄八郎が明治10年(1877年)2月から始まった西南戦争に、熊

本協同体の大将として西郷軍に加担します。田原坂を抜かれて熊本城を落と

せず、八代から人吉へ下ることになります。八郎は4月6日球磨川河口の萩

原提にて、政府軍の銃弾に撃ち抜かれ辺見十郎太に見守られながら息絶えま

す。(現在、国道三号線脇に宮崎八郎の記念碑が立っています)荒尾村の

家に八郎戦死の知らせが届いたのは、明治10年秋です。その知らせを受け

た父長蔵は、泣きながら庭を転がり叫んだという。残った息子たちに曰く、

「お前達は決して官のメシを食うな」という。それ八郎の死が相当応えたの

か、翌明治11年に亡くなっています。これは遺言となります。その時、4

男の滔天は7〜8歳ですから、八郎の死の意味が分らなかったと思います。

 宮崎兄弟と両親は、いずれも頭脳明晰な人達ばかりです。本も沢山読んで

いるし、感度抜群な人であります。その後、滔天は20歳くらいまで不良仲

間と遊び呆け、沢山の本を読んで郷土の先輩たちと交流して生きています。

21歳くらいで結婚しても相変わらず、道楽息子を続けます。そして長崎や

熊本で遊びながら、2兄の弥蔵と中国革命をやろうと決意します。しかし先

立つ資金がなく、滔天は暹羅(タイ)に行って資金を稼ごうとします。しか

し、中々思うようにいきません。その内、兄の弥蔵が亡くなります。相当な

ショックを受けますがある日、中国の孫文と出会います。この人と出会って

から中国革命の加勢人として、動くことになります。中国革命を加勢する為

に、犬養毅に近づき資金や鉄砲などを集めて回ります。犬養から衆議院議員

で材木商の中村弥六を紹介され、孫文の為に鉄砲や銃弾を中国に搬送するよ

うになります。その銃器をフィリッピン革命に利用する為、布引丸に載せ東

シナ海を航行中布引丸が台風の為に乗組員共ども、沈没してしまいます。そ

れで滔天君達3人組は、シンガポールへ行って官憲に捕まり入牢します。孫

文が助けに来て、1週間の牢獄生活から解放されます。それやこれや失敗ば

かりしている時、恵州蜂起の知らせが入ります。これで滔天は生き返って中

国へ渡り、偵察を続けます。

 恵州蜂起に銃器がいるので、孫文から滔天へ電報が入ります。早く銃器を

送ってくれです。滔天は孫文に銃器は、送れないとの電報を打ちます。そし

たら孫文から銃器がダメなら、金を送れとの催促が来ます。滔天の手元に、

一銭のお金もありません。それは布引丸のオーナーである中村弥六が、孫文

から預かった金を全部ネコババして使っていました。それで成功するハズの

恵州蜂起の動きが取れなくて、敵陣営に占領されてしまいました。これで滔

天は孫文に合わせる顔がありません。そして日本国内にいる内田良平からお

前は中村と組んで、ネコババしたのだろうと追及されます。この問題は滔天

と犬養×中村に仲裁が入って決着するのですが、滔天は一切口を割らない。

それで仲間から、金を窃盗したと疑われます。そして犬養邸で仲直りの新年

会があり、内田良平があの金を出せという。滔天は絶対口を割らないから、

内田が滔天の顔面を目掛け茶碗を投げつけます。それがまともに当たって、

滔天は大けがをします。

 滔天は茲から人間不信がつのり孤独となり、上野の下宿屋に引きこもりま

す。下宿屋といってもそれは芸者の姐さん宅に、転がり込んで生きるあり様

です。おなごに、養って貰う生活に入ります。そして30歳になる男の引き

こもり生活を半年位い続けている内に、これではダメだと思うようになりま

す。それで自ら浪曲師になって、中国の革命資金を自ら稼ぎ中国に渡る計画

を立てます。その為に浪曲師となり、資金を貯めることにします。  

 No2のとう天会へ続く→

 

 

全国とう天会! No 008 平成3010月1日 田ご作 

                     〒859‐3711  長崎 波佐見町 田ご作村

 

100年先が読める宮崎滔天!NO2

 

 明治33年から34年ごろ、滔天君は可笑しくなります。滔天本人は可笑

しいなどとは、一切思っていません。その頃、荒尾村の嫁ツチさんは3人の

子供を抱えて、悪戦苦闘の生活を強いられています。それで滔天がどのよう

な生活をしているのか、上京してみます。丁度よか塩梅に、世界を回ってき

た1兄の民蔵と共に、滔天を訪ねます。そしたら滔天が言う。俺は、これか

ら浪曲師になるという。ツチさんと民蔵は、全力でそれを止めようとします

が一切聞く耳を持ちません。ツチさんはあきらめて、熊本に帰ることにしま

す。なけなしのお金を少しだけ渡します。滔天は元々歌が上手でなく人前で

歌うのは、もっと苦手であります。その当時、第一級の浪曲師、桃中軒雲右

衛門の弟子になります。そして自らを桃中軒牛衛門の名前で、全国を回りま

す。福岡博多で頭山満の門下生が沢山来て、会場を沸かせました。その後、

長崎・佐世保を自ら巡回して回ります。その道中によか女子を引っかけて、

子供まで出来てしまいます。明治37年と言えば日露戦争が始まる直前で、

佐世保に逗留します。それから北九州経由で大阪へ帰りますが、北九州の折

尾駅まで来ると列車から降ろされます。それは日露戦争開戦前で、兵隊を乗

せるのが優先です。1月末ごろの寒い日に、小倉まで歩いて行ったのかどう

かです。この頃から滔天の辛酸労苦な生活が急激に、始まります。日露戦争

が終わるころの明治38年秋になると、何とか生きるすべを自ら作り出して

います。それは、浪曲と執筆であります。

 明治38年初めごろ滔天第一子の龍介と次男の震作が、上京してきます。

それは熊本荒尾で生活できなくなったツチさんが、荒尾から追われるように

東京へ逃げ出したのです。先ずは、男の子2人を東京の滔天宅へ送ったので

す。この時、龍介13歳で、震作11歳であります。それから嫁ツチさんと

末っ子の妹が上京してきました。その時、滔天の妾である柿沼とよとの間に

出来た、リツと男の子が居りました。ツチさんは、その子供達を引き取って

我が子のように育てています。とても人間的によく、出来た人であります。

 

 この頃になると中国からの留学生が滔天の家に、押し掛けるようになりま

す。滔天は家賃を滞納する等で、何度も家移りをしています。それでもツチ

さんは滔天と一緒に暮らせることが非常に良かったと見え、元気で働くよう

になっています。滔天も新聞社に原稿を投稿し、僅かの生活費を稼いでいま

す。明治43年の末頃になると、辛亥革命が勃発し放浪生活10年に、終始

符を打ちます。明治44年になると辛亥革命が成功し、孫文は一躍、時の人

になります。その結果、滔天にもその恩恵が回ってきて、何処からともなく

付け届けが山のように来ます。近くの酒屋さんはこれまでの付けを全部ロハ

にして、請求書を破棄しています。孫文は日本国政府が革命に、横やりの干

渉をしないよう滔天に依頼します。これは孫文が革命家として、見事な見識

を発揮しています。その後、辛亥革命は資金不足で李鴻章政府の袁世凱と妥

協し孫文は、袁世凱に政権を横取りされます。

 そして大正時代となり滔天は、色々と日本の行く末を案じながら次のよう

な言葉をのこしています。「日本は中国を侵略すればする程、アメリカと戦

うのを想定しておかなければならない」と。これは太平洋戦争が始まる20

年以上前の大正8年から10年にかけて云々しています。この所の詳細は、

加藤直樹著『謀反の児・宮崎滔天の「世界革命」』のP328〜P331の

「わが民族は余りに傲慢なりき」の項をお読み下さい。如何に戦前の日本人

が朝鮮・中国と東南アジアの人々を、蔑視していたかがよく理解できます。

 それで私は太平洋戦争を誰が始めたかと、太平洋戦争が始まる前に戦争は

ヤメロという人がいなかったかを探し求めていました。そしたら明治〜昭和

期の戦争企画マンは長州の吉田松陰です。奴が著した幽囚録1854年(安

政元年)に、日清・日露戦争と太平洋戦争をヤレと記していますその思想

を現代のアベが受け継いでいます。

※9月の面白ブログのご紹介!

http://tago39.jugem.jp/?day=20180910

http://tago39.jugem.jp/?day=20180915

※通信欄!

 

※よか日和なり。

城ノ下

※城の下地区を、我が家の2階から写しました。平成30年9月27日撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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