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さざ波便り木曽3川

さざ波便り   No 421号 平 成30年08月1日 田ご作

                     〒859−3711  長崎県波佐見町田ご作村

 

 木曽3川の宝暦治水事件とは!No1

 

 1754年(宝暦4年)1月、薩摩藩家老平田靱負は、愛知県・岐阜県・

三重県に跨る木曽3川治水工事の責任者として、鹿児島市を出発しました。

平田は治水工事の総奉行として現地に向かう途中、大阪の豪商3〜4軒に借

入金7万両の交渉を行って現地に至ります。大阪の豪商は中々、貸してくれ

ません。それで薩摩の特産品は黒砂糖でありますので、それを担保に大金を

借りることに成功しました。それは奄美大島の島民から過酷な取り立てと、

搾取でありました。その大金を荷車に積んで、岐阜県海津町まで運びます。

金策のために先発隊より1週間ばかり遅れて、海津町大牧地に到着します。

そして2月27日、鍬入れ式を行って工事開始であります。

 

 幕府から木曽3川の治水工事の命令書が薩摩藩に届いたのが、宝暦3年末

です。それから出発までの期間は1ヶ月余です。その時、藩士の中から徳川

と一戦交えようとの意見が数多ありました。平田は興奮する藩士らを説得し

て、工事を行うように導きます。その平田靱負が藩士たちを説得した言葉が

振るっています。今、戦をやると鹿児島は灰燼に帰すという。そしたら民百

姓が、生き難くなるという。又、木曽3川流域の住民をも水害から、守るこ

とになるという。それまで徳川幕府に木曽3川地区の百姓から何とか、堤防

工事を行ってくれとの嘆願書が出ていました。それは大がかりな工事であり

まして、予算が大きいので先延ばしにしていました。そこで幕閣に知恵者が

おりましてその工事は薩摩藩に、お手伝い工事でよいとの発言をしました。

それを老中で決済し薩摩へ早馬を飛ばし、木曽3川治水工事の命令を下しま

した。その総工費は現在のお金で、2〜300憶円の40万両であります。

それで薩摩藩主の島津重年は、引き受けました。

 

 木曽3川とは、木曽川・長良川・揖斐川のことです。この3川は現在、お

が決めた一級河川であります。なぜこの地域だけ毎年水害が起るかという

と、3川底の高さに違いがあり水害が起り易い地形になっていました。そし

て3川が水害を起こさないようになったのは、昭和36年の伊勢湾台風後で

す。その時もこの辺りの田畑は、水没しました。それで国交省が本格的に、

工事を行って治水をよくしました。それは平田靱負が1754年、治水工事

を始めてから200年以上の間、大水害に見舞われていました。このような

近代工事を行って初めて暴れ狂う水害から、住民を守ることができました。

何故薩摩藩に治水工事の命令が出たかは、関ヶ原の合戦で家康の本陣を薩摩

の騎馬軍団が脅かし、鹿児島へ逃げ帰りました。その時家康は獰猛な薩摩藩

を何とかして、滅ぼしたく思っていました。しかし大軍を率いて鹿児島まで

いけないので、家康の遺言に徳川を倒しに来るのは西方の薩摩だから、油断

するなとありました。徳川家が天下を取って150年も経過すると、幕府は

定します。そこで何とか薩摩の力をそぐ方法はないかと、思案しました。

それで丁度よい塩梅に、木曽3川の治水工事が出てきました。幕府が治水工

事をやれば、莫大な資金が要ります。それで薩摩藩に木曽3川治水工事の命

令書が届いたのは、宝暦3年12月25日です。

 

 茲から薩摩藩内は、喧々諤々の論戦が始まります。そんな中にあっても、

藩主の島津重年は家老の平田靱負を総奉行に任命し、副奉行に大目付の伊集

蔵を任命しています。それでも藩内は、上を下への大騒動が始まってい

ます。薩摩隼人たちは徳川と一戦構えようと、決起盛んな武士たちばかりで

した。1ヶ月あまり論戦ばかりやっていると、論戦疲れが出てきます。その

ころ合いを見計らって、平田靱負が徐に「民に尽くすのも武士の本分」と発

します。この平田の発言は薩摩隼人にとり又人間として、重みのある人間尊

重の言葉でありました。総奉行の平田は、藩内をようやく纏めることができ

まして、出発の準備に取り掛かります。この時、平田靱負は死を決していま

す。その思いは薩摩藩を守ることと、藩内の民百姓を守り通すことでした。

このような優秀な上司を薩摩藩は倒幕まで、持ち続けていました。   

 →→全国とう天会へ続く

 

全国とう天会!  No 006号 平成30年08月1日  田ご作

                    859‐3711  長崎県 波佐見町田ご作村

 

 木曽3川の宝暦治水事件!NO2

 

 総奉行平田靱負の言葉をもって衆議一決し、宝暦4年(1754年)1月

29日鹿児島を発します。伊集院蔵は一日遅れて、30日に出発していま

す。総勢947名の藩士と工事人が揃って、出発しています。1ヶ月ばかり

の道程で、2月下旬現地に到着し27日に幕府検問役が見守る中、鍬入れ式

を行っています。河川土木工事はどこにもあるから、薩摩の人々もよく理解

しています。ところが徳川幕府の嫌がらせといじめに、毎度悩まされます。

まず泊まるところは、近隣農家の納屋などであります。食事は一汁一菜であ

りまして、酒・魚・肉などは一切禁止です。煙草も禁止でありました。土方

の重労働の仕事でありましても、一汁一菜であります。故に栄養失調で、死

ぬものが続出します。そして蓑傘などは安く売るなと、百姓達に発令してい

ます。更に、工事の妨害を幕府は行うのです。あまりにも酷いので薩摩藩が

夜警をしていたら犯人は、幕府の回し者でした。又設計変更が度々ありまし

て、ぶん殴ってやりたいほどでありました。それでも薩摩隼人は平田総奉行

の命令に従って、幕府の役人とケンカする事はありませんでした。よく耐え

ています。それから食事が少ないので、伝染病の疫痢が流行ります。

 

 更に石工などの専門職を雇うことは、ままならぬという触れをだしていま

す。それにも平田はよく耐え、1年3ヶ月で工事を完成させています。よう

やく宝暦5年5月22日、出来栄え見分が終了しています。5月24日、薩

摩藩へ工事完成の報告を行っています。25日平田靱負は工事が長引いたこ

とと、莫大なお金を使ったことで、自刃の切腹をしています。私はこの切腹

の意味が分からず長い間、疑問を持っていました。そして今年6月25日、

平田靱負を祀る岐阜県海津町の木曽3川公園内の治水神社に行きました。そ

したら平田靱負が切腹したのは、徳川幕府への抗議でありました。30名の

病没者と自刃した藩士50名余を、治水神社の銅板に記名しています。河川

工事の総延長は112Km もあり、総工費40万両の300億円と言われて

います。この怨恨が、討幕の戊辰戦争へ繋がって参ります。

 

 平安が長く続くと人間は、どうしてもいじめをヤリたくなります。平田靱

負は藩士を説得するのに人間的人間の言葉をもって、木曽3川工事を請け負

っています。先にも記しましたが「民に尽くすのもまた武士の本分」と言っ

て、藩士らを説得しました。その頃の武士の本分は、主君に尽くすのが武士

の本分でありました。それを乗り越えて「民に尽くすのもまた武士の本分」

と、言い切っています。これはオミゴトであります。

 

 徳川幕藩体制が崩壊したのは、グローバル化と初期資本主義政体の帝国主

義が勃興したからです。恐喝ペリーの黒船もロシアのプッチャーチンもイギ

リスの悪党パークスも、他国を侵略して我が領土にするという。遅れてプロ

セイン・ドイツのビスマルクも、日本の侵略を企画しました。大国主義は人

間尊重の大義名分がありませんから、強大な武器を背景にして他国へ侵入し

ていきます。徳川を倒すために、薩摩と長州がタッグを組んでやらんでも諸

外国が徳川を倒して、傀儡政権を明治の初めに作っています。

 

 それは兎も角として、日本は日本人によって統治したほうがベストです。

その為に、薩摩藩の西郷と大久保が奔走しました。ついでに芸州の広島藩は

120万石から日本海側の片隅に閉じ込められ、29万石に減俸されその後

36万石となりました。これを250年も続けていると、精神障害を起こし

ます。そこに高杉と桂と伊藤らが出てきまして、討幕運動をヤリ始めます。

彼らは全国を飛び回り、政治の仕組みをよく学びながら長州は、事件を起こ

します。ついでに薩摩もイギリスと戦って負けますが、事件を起こしていま

す。これは家康が1616年、死ぬとき徳川家を倒すのは西方から上ってく

ると遺言しました。薩摩も長州も徳川怨恨で戊辰戦争を戦いました。それは

戦に名分がなく、普遍性もありませんでした。その結果、明治新政府の日本

統治理念が歪んでいます。

 

※面白ブログのアドレス

http://tago39.jugem.jp/?day=20180725

http://tago39.jugem.jp/?day=20180711

※通信らん

 

 

 

※治水神社! 岐阜県海津町油島に所在。

画像に含まれている可能�があるもの:屋外

※薩摩藩家老平田靱負と治水工事で憤死した藩士と、薩摩人を祀っています。

惨い事を徳川幕府はしたものです。この敵討ちが戊辰戦争であります。徳川を

倒す標的の,小栗上野介でありました。小栗は慶応4年4月群馬県水沼川原

で、斬殺処刑されました。小栗は江戸末期の徳川政権下で、善政を行っていま

す。その最大の功績は、現在も使われている横須賀軍港であります。その施設

があったお陰で、日露戦争に戦勝しています。その海戦で最大の功績があった

東郷平八郎が日露海戦後、横須賀港にて小栗上野介お陰とお参りしています。

東郷は薩摩隼人です。これで徳川と薩摩の怨恨は、薄くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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