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名古屋チンドンの旅!

※トヨタビル!

※40階以上あって200ⅿ以上あります。名古屋で一番高いビルだよ!

田ご作どんら

※名古屋駅前の高級居酒屋蔵相だったかな?本式の純田ご作8人組です。

 

 

※幕末維新は木曽3川事件が要因なり!

 

※今から264年前、宝暦の治水事件が起きました。この事件の仕掛人は、徳川

幕府であります。それを受けて立ったのが、薩摩藩であります。江戸時代の後半

に入ったとはいえ、幕府の絶大なる権力は現在のアベ政権どころでない。その権

力に立ち向かうには、まだ110年くらいの時間が必要であります。この事件か

ら幕末維新の戦をひも解くと、面白いセオリーが出来上がります。下のほうにそ

の顛末を記しました。ヒマ人は読んでみてください。いつの時代も政治も経済も

人の動きもスベテ、変化するだけであります。

 

※国土交通省が木曽3川を公園に!

河川敷公園

平田神社

※この神社は薩摩藩家老平田靱負大人を、神主として祀っています。

※平田靭負翁の銅像です。3川の治水事業が完成した翌日平田は幕府に抗議

して、自刃(切腹)しました。後に続く人50名です。この怨念を薩摩隼人

は、幕末まで思い続けました。憎し徳川です。

 

※この宝暦治水由緒書!

説明版

堰造り

※約1000名の人が鹿児島からこの工事に参加しています。地元の加勢人

は一人もおりません。それは幕府からのお達しだったからです。

 

※木曽3川工事で亡くなった人の犠歿者碑!

殉職者名簿

※自害した人51名、病没した人33名、84名の方が命を落としています。

 

※横暴な幕府役人の検査!

木曽川

※関ケ原合戦の時、薩摩藩は東西両陣営につかず傍観していました。それで

薩摩藩の殿様は、家康陣地をめがけ馬で暴走しました。この時、家康君は吃

驚して肝を冷やしました。この時の仇を討とうと、薩摩藩に過酷な木曽3川

工事を請け負わせました。茲まではヨシとして工事中に、工事が早く進まな

いように妨害をしています。更に工事が完成すると、その出来具合が図面通

りに出来ているか、厳しい検査をします。検査を通過しないと、初めからや

直しであります。このような手直し修正をやらされたひにゃアータ・・・

痛み骨髄にしみます。この宝暦治水事件から114年後、戊辰戦争へ繋が

てまいります。個人的な恨みは、約3代で消滅します。しかし、お国対お国

の怨恨は将来に亘って、受け継がれて参ります。薩摩藩は倒幕を進めるにあ

たって弱音を吐く藩士に向かい、あの宝暦の治水事件を思い起こせが合

で、ありました。薩摩藩が滅法強かったのは、それ100年以上前の事件

藩士から足軽小者まで更に、鹿児島の民百姓まで怨念を共有していました。

※倒幕から討幕へすり替わっていったのは、徳川憎しであります。この一点

に集中させて江戸城まで、兵を進めました。そこには徳川幕府の可笑しな政

権を倒し、新政府を作るとの概念と理念はありませんでした。その証拠が明

治10年に起きた、西南戦争で馬脚を現しました。それ明治10年の西南戦

争で大活躍した、熊本の宮崎八郎がそれを確認しています。西南戦争の総大

将であった桐野利明と参謀の篠原国幹に「この戦の大義名分は何か」と問う

ています。そしたら桐野も篠原も熊本城を、突き破れだけが彼らの主張であ

ります。しつこく聞く八郎にそんなものあるものかと、突っぱねています。

これを聞いた八郎君は、ガッカリして自ら指揮している熊本協同体に帰りま

す。それでもここまで来たのだから、後には引けないと言い戦を続けます。

それで政府軍が田原坂を突破し熊本へ入ると、西郷軍は八代&人吉方面へ敗

していきます。宮崎八郎は八代口で、政府軍の銃弾を受け斃れます。

※このような戦に、大義名分と概念・理念がないと負け戦になります。その

結果、薩摩藩は明治政府で主要な政治を長州藩に盗れてしまいました。それ

で長州の悪政が現在まで、続いているのです。西郷が掲げた戦の大義名分は

「政府に尋問の筋これあり」です。これに普遍性の大義名分があるかどうか

を、西郷は知り尽くしていました。西郷は、薩摩のよかニセどん達の戦好き

を止める事が出来なかったので「おいどんの命ばおまんはらにくれもっそ」

と云々しています。故に戦の指揮は一切取らず、勇敢だけが取り柄の桐野に

全権を預けたのです。初めから負け戦を覚悟してやったのが、西南戦争であ

りました。それに踊らされたり自ら踊った奴輩らは、自業自得というよりも

止まらない行動でありました。

※話を本文に戻して、幕末維新の戦いは、大きな要因として木曽3川事件が

あることと、その前の関ケ原合戦にその主因がありました。しかしそれから

418年過ぎて、後世の田ご作がそれらしきコメントを発しても、それがど

うしたでオシマイでありんすバイ!・・ナム〜・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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