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江藤新平!その
祐徳院
平成25年1月1日午前5時半頃の祐徳稲荷神社本殿です。行列して参詣。


江藤新平!その

昨日に引き続きその後の江藤新平を述べます。新平が京都に着いたのは7月中頃と思います。京都の夏は、蒸し暑い所です。脱藩は1862年6月27日佐賀県富士町から、三瀬峠を越え福岡藩領へ入ります。峠で彼は、佐賀藩を振り返り詩を詠みます「邦家海獄の恩に報いんと欲し、慷慨剣を杖り関門を出ず、晨の星は落々風は蕭索、毛髪冠を衝き肝胆寒し」これは、早朝ひそかに藩境を越えた時、悲壮な心境を詠んだ江藤の漢詩であると・・毛利敏彦先生の案内です。京都に着いて先ず長州藩の桂小五郎(木戸孝允)を訪ね、色々と京都情勢を聞き出します。案内は、伊藤俊介(伊藤博文)が受けもっています。桂の紹介で公家の姉古路公知と出会い、彼の臨時秘書官になります。8月26日には、姉小路に王政復古の密奏書を提出しています。それ佐賀藩庁へ、逐次京都の政情を報告しております。3ヶ月ばかり京都で倒幕の探索をしたが、はかばかしい成果も得られず帰藩する事にします。9月に佐賀藩庁へ戻ると、おお事になっていました。その時代どの藩でも脱藩は、打ち首獄門です。佐賀へ帰ったら自宅で謹慎し沙汰を待て!そして定役からご家老宅へ、出頭するようにと命令が有りました。大きな家の家老宅座敷へ案内されます。弟の源作を伴って上がって見ると、三宝に判決文がおいてあります。それを源作に盗み見させたら「死罪一級減ず永蟄居」でありました。これで一安心して即刻佐賀城内から立ち去れです。行く先は、小城経由で険しい山岳地の富士村です。そこに金福寺と言う破れた廃寺が現在も残っています。そこで5年間の蟄居ですが、約2年余で佐賀城近くに戻っています。それは新平が、京都の正確な情報をお殿様(閑叟公)へ、何通もの手紙を送っていたからです。これは彼の見事な情勢分析能力が、奏功しました。彼が京都に居た3ヶ月間は、京都が不穏な動きをしていた時です。新平が上京した頃は、騒乱前夜でありました。国臣君も西郷さんも、一足違いで京都を離れていました。新平が大活躍するまで5ヶ年の歳月が流れます。司馬作品で江藤を題材にした「歳月」は、この期間の事だとワッチは勝手に思っています。新平の永蟄居が解けるのは1867年12月です。蟄居期間の江藤は、閑叟公の密偵をしていたようです。その後、鳥羽伏見の戦いが正月2日から始まります。次回をお楽しみに・・・

新平?
この本は明治維新史研究会の発行です。太田善郎先生と嘉村先生がご活躍!ワッチもこの会の会員で末席を汚しています。

金福寺
平成24年7月ごろ撮影しました、佐賀県富士町の金福寺です。新平はこのお寺で、1年〜2年を過ごしています。この頃が一番生活困窮の時で、自ら詩を詠んでいます。・・・巾着に金もなく米びつに米が無い・・・・・

案内板
金福寺案内と江藤新平の生涯を案内してあります。拡大し見て下さい。拡大出来ずにメンゴのごめんです。

西郷ドン?
珍しい写真です。写真嫌いの西郷さんが右から2人目で、一番右が平野国臣です。一番左が大久保一蔵どん。中の3人は、島津家の人々か岡藩の小河どんか??です。この時が、最後の別れになった國臣君と西郷どんです。國臣君は西郷さんの先生であったので、肩に右手をかけています。横笛も左に差しています。みな20歳代と30歳代です。1862年(文久2年)4月7日


















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